「愛する者の救いを願って」
(ローマ10:1-4)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 同胞ユダヤ人のためなら、「この身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」とさえ言ったパウロでしたが、9章の終わりでは、イスラエルは救いに達しなかったと言わなければなりませんでした。
 そこで10章に入り、パウロはもう一度、同胞に対する熱い思いを口にします。「わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである」。そのユダヤ人は、神に対して熱心であることは保証するが、それが正しい認識を欠いた、間違った熱心であると指摘します。神の子キリストを十字架につけて殺すという狂った熱心でした。
 その間違った熱心は、「自分の義を立てる」という点に集中します。自分の正しさを自ら証明することに力を注ぎ、それによって神に義と認めてもらおうとするのです。私たちの普段の生き方も、常にこの「自分の義を立てる」という方向性を持っているのではないでしょうか。社会がそのように要求するからです。問題は、神の前でさえ、そのように生きてしまうことです。キリストを頼みとするのでなく、自分の正しさを頼みとするのです。そう生きてしまうのは、神の義を知らないからです。キリストによって義とされる恵みを知らないために、自分で必死になって義を獲得しようとします。
 しかし、キリストは律法の終わりとなられました。十字架によって罪の呪いを引き受けることにより、私たちを律法の要求から解放してくださいました。そして、キリストだけを頼みとして生きるように全ての人に呼びかけておられます。どんな人も、キリストによって救われうるのです。だからこそ、私たちは愛する家族や友人の救いを諦めることなく、救いを祈り続けたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)