「つまずきの石が救いの岩に」
(ローマ9:30-33)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 神によって義とされる、救いの恵みについて、ユダヤ人と異邦人における逆転した現実をパウロは語ります。真の神を知らず、義を追い求めもしなかった異邦人が救いの恵みにあずかったのに対して、熱心に律法の義を追い求めたイスラエルが救いに至らなかった、というのです。
 この両者の対照的な姿は、マタイ20章にあるぶどう園の労働者の譬え話を思い起こさせます。ぶどう園において、一日一デナリの報酬を約束されて労働者たちが働き始めました。夕暮れになり、主人は彼らに、夜明けから一日中働いた労働者も、夕方5時にやってきてたった一時間しか働かなかった労働者も、同じ一デナリを支払いました。すると、早朝から一日中働いた労働者が主人に文句を言いました。ほとんど働いていない人と自分たちが一緒の賃金はおかしい、自分たちの苦労はもっと評価されるべきだ、と。
 それに似て、ユダヤ人たちは自分たちの正しい行いによって神の義を得られると思っていました。しかし、救いは自分のわざによって獲得するものでなく、神が一方的な恵みとして与えてくださるものです。私たちはただ感謝して受け取るだけです。何の資格もない者たちを、御子キリストの十字架の犠牲のゆえに、救ってくださるのです。
 自分たちの実績を誇るユダヤ人たちにとり、キリストはつまずきの石となりました。しかし、神が置かれたこのつまずきの石は、自分の罪を徹底的に知らされた者にとっては救いの岩となります。私たちは皆、神のみ前では実績ゼロの者たちです。そのような私たちが、ただキリストの恵みによって救われたのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)