「神のあわれみを受ける場所」
(ローマ9:19-29)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 救いの与った者たちについて、「神による選び」と説明したパウロは、ここでは「残された者」と表現しました。罪のゆえに滅びることになっていた「怒りの器」が、神の憐れみによって残されたというのです。
 その神の憐れみについて、預言者ホセアの言葉を引用して語ります。ホセアは自分の生まれた子の名を「あわれまれない者」、「私の民ではない者」と付けるように主に命じられます。それはイスラエルの民に対する神の思いを表していました。神の民イスラエルは、主に「私の民ではない」と告げられたのです。
 ホセアはさらに、妻ゴメルのことで大きな痛みを経験しました。彼女は子どもたちを生んだ後、ホセアのもとを去り、他の男性のところへ行き、ついには奴隷の身となっていました。そのとき、主はホセアに「姦淫の妻を愛せよ」と命じられました。ホセアは神の言葉に従い、ゴメルを代価を払って買い戻し、再び妻として迎えました。自らの経験をとおして、イスラエルをなおも愛そうとする神の大きな痛みを知ったのです。
 イスラエルを憐れむ神は、「私の民ではない」と言ったその場所で、「私の民である」と告げてくださるとパウロは語ります。「その場所で」とは、「そのままで」ということです。憐れみを受ける者たちは何の資格もないのに、悔い改めたわけでもないのに、罪人がそのままで恵みを受ける、それが贖いということです。
 罪人が憐れみを受ける「その場所」とは、キリストの十字架という場所です。十字架の下で、「あなたは罪人である」と告げられます。けれども同時に、そこで「あなたの罪は赦された」と告げられます。どんな人も、資格がない者たちが、憐れみを受けるように招かれているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)