「尽きることのない神の真実」
(哀歌3:19-33)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 紀元前586年、南王国ユダがバビロニア帝国によって滅ぼされ、都エルサレムは破壊されて焼け野原になり、指導者たちは連行され、男たちは殺され、女たちは犯され、生き残った者たちも飢えのために死んでいく、そのような悲惨な光景を目の当たりにした預言者エレミヤは、涙を流しながらこの哀歌を作りました。
 この哀歌に、嘆きの歌の特徴の一つである「なぜ」という言葉が出てこないのは、哀しみの原因が民の罪にあることをエレミヤはよく知っていたからです。神の怒りを受けて滅ぼされたために、もはや絶望するしかありませんでした。
けれどもエレミヤは、「しかし」と述べて、絶望のただ中で希望を語ります。それまで目の前の悲惨な光景ばかりを見つめていたエレミヤが神ご自身に目を向けたとき、そこに一筋の希望が生まれました。エレミヤが思い起こしたことは、「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」ということでした。神が民と結んでくださった契約のゆえに、神はご自分の民を決して捨てることはないことを思い起こしたのです。
 この神のいつくしみとあわれみを支えるのは、神の真実です。「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。私たちの信仰は、この尽きることのない神の真実にかかっています。私たちの真実さが私たちを救うのではありません。私たちの望みは、神がどんなときにも真実を貫いてくださる、という点にあります。
 一年の歩みの中で、私たちは哀しみに沈み込むことがあるかもしれません。しかし、主のいつくしみ、その真実は尽きることがないゆえに、朝ごとに新しい命が与えられ、立ち上がることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)