「安心して悔いくずおれる」
(哀歌3:19-33)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 罪を犯したために国が滅ぼされた絶望的な状況の中で、神がどのようなお方であるかを思い起こしたとき、そこに望みが生まれ、神を待ち望む心が与えられました。
 エレミヤは、神による救いのわざを待ち望む姿勢について、「主の救を静かに待ち望むことは、良いことである」と言い、さらに「主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい」と語ります。「静かに」「黙して」とあるのは、神が自分たちの罪を示されたとき、もはや言い訳をするのではなく、それをそのまま受け止めようとする態度です。自分の罪と真正面から向き合うことをエレミヤは勧めます。
 このときエレミヤは、「満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ」と語ります。「もうそれでよい」と言われるまで、神による罪の指摘をそのままで受け止めるようにとの勧めです。これは、私たちが罪を示されたとき、「満ち足りるまでにはずかしめを受ける」ということが出来ないからです。しばしば安易な悔い改めがなされます。自分の罪を十分に見つめることをしないままで、実に簡単に罪を悔い改め、「私は赦された」というところに立とうとします。
 そのように自分の罪を見つめることを避け、安易な悔い改めがなされるのは、心の底に大きな恐れがあるからでしょう。自分の真相を知らされることの恐れであり、神に捨てられることへの恐れです。自分の罪を見つめることができないとしたら、それは私たちが神の赦しを信じ切れていないからではないでしょうか。しかし、神の尽きざるいつくしみを信じるからこそ、私たちは安心して自らに絶望することができます。神を信じるからこそ、神の前に悔いくずおれることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)