礼拝メッセージ要約(説教者による)  
2018年4月~6月*

4月1日(月)
「予想を覆す復活の喜び」
(マタイ28:1-10)

 主イエスの十字架の死と埋葬を見届けた女性の弟子たちが、安息日が終わった日曜日の朝、墓へとやってきました。主イエスの復活を期待してやってきたのではなく、主イエスの亡骸に香料を塗りつつ、その死を悲しみ嘆くために来ました。彼女たちも主イエスが復活されることを聞いてはいましたが、とても信じることなどできませんでした。
 ところが、彼女たちの予想を裏切るような出来事が起こりました。墓に着くと、大きな地震が起こり、み使いが天から下り、墓の入り口を塞ぐ大きな石を転がし、その上に座りました。恐れ戸惑う彼女たちに、み使いは主イエスの復活を告げ知らせました。「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである」。女性たちは、主イエスの亡骸を目当てにやってきましたが、その期待は完全に裏切られたというのです。主は甦られたため、死者が住む世界である墓にはおられない、というのです。
 み使いの言葉に、彼女たちの中で命を失っていた主イエスの言葉が甦りました。そのとき、彼女たちの中で主イエスが甦り、また悲しみに沈んでいた彼女たち自身も甦り、大喜びで、他の弟子たちに喜びの知らせを告げるために走り出しました。
 その途中、復活された主イエスが彼女たちに出会い、「喜びあれ」と声をかけられました。主が死から甦られたからです。私たちも、毎週の礼拝において甦りを経験します。復活の主にお会いするとき、喜びの中に生きることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



4月8日(日)
「罪人への神の愛」
(ローマ5:1-11)

 私たちは自分に注がれている神の愛を、身の周りに起こってくる出来事で判断しようとします。けれどもパウロが指し示す場所は違っています。御子キリストが私たちのために、私たちに代わって十字架で死んでくださったことにより、神の愛が示されたと語ります。
 私たちがその愛を受けたのは、「まだ罪人であった時」です。神の愛を受ける資格など全くない時に、キリストは私たちのために死んでくださいました。それがどれほど驚くべきことなのか、パウロは、正しい人のために死ぬ人などいない、情け深い人のためなら、あるいはいるかもしれない、しかし、罪人のために死ぬような人など決していない、ということを語りながら、キリストはそのような考えられない愚かなことをしてくださった、と語ります。私たちがまだ罪人であったとき、そればかりか、「私たちが敵であった時」、敵対する私たちのために、キリストが十字架にかかってくださったと述べます。これこそ、神が私たちに注いでいてくださる本物の愛である、と。
 パウロは自らの人生を振り返りながら、実感を込めてこれを語ります。パウロ自身、かつてはキリスト者を迫害し、キリストに敵対して生きていました。しかし、ダマスコ途上で復活の主と出会い、救いへと招かれました。悔い改めたパウロではなく、罪のただ中にいたときに、罪人のかしらであったときに、パウロを招き、救いへと入れてくださいました。
 この神の愛が分かるとき、私たちは患難の中でも耐え忍び、神を喜びつつ生きることができます。愛の神は私たちを決して捨てることがないからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



4月15日(日)
「罪を見つめさせる恵み」
(ローマ5:12-21)

 私たちは自分の中にある罪の現実を見つめることを避け、まるで罪などないかのように生きようとします。けれどもパウロは、どんな人も言い逃れできない程の徹底した罪人であり、罪と死が全ての人を支配してしまっていると語ります。
 そのように全人類に罪が及んだのは、最初の人アダムが罪を犯したことによります。アダムがエデンの園に置かれたとき、「善悪を知る木の実を食べてはならない、食べると死ぬであろう」と主に言われました。けれども妻エバが最初に食べ、誘われたアダムも同じように食べてしまいました。罪とは、神の言葉に対する不従順であり、神だけを神とせよ、という十戒の第一の戒めに反するものです。アダムが神の言葉に背いたとき、言われていたとおり、死が人間の中に入り込みました。
 パウロがアダムをここで紹介するのは、全ての者たちはアダムの子であり、「原罪」と呼ばれるような罪の性質を生まれながらに負っているからです。アダムが罪を犯したとき、エバにその罪の責任を押しつけて自分を守ろうとしました。それと同じように、私たちは自分を守るために他者を平気で切り捨てるような自己中心性を持っています。アダムそのものの姿が私たちの中にあります。
 そのような自らの罪の姿を素直に認めることができるのは、キリストによる救いを知っているからです。そのような罪人たちのために、御子キリストが十字架にかかってくださったという驚くべき恵みを知っているからこそ、罪の現実から目を逸らすことなく見つめることができます。私たちはルターが言うように、赦された罪人たちなのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



4月22日(日)
「はるかに勝るキリストの恵み」
(ローマ5:12-21)

 最初の人アダムが罪を犯したことにより、全ての人は罪と死の支配の中に置かれました。川の源流に毒が放り込まれたため、その下流に生きる全ての人にその汚染が及ぶかのように、アダムをとおして、全ての人は罪に定められたのです。
 パウロがアダムのことを持ち出したのは、アダムの責任を問うためではありません。最初の人アダムと、第二のアダムと言われるキリストとを対比させながら、キリストの豊かな救いの恵みを語るためです。キリストは、アダムの罪による支配を打ち破るお方として、人となってこの世に来てくださいました。毒に汚染された川の途中で、死んでいた水を甦らせる新しい命を与える流れが注ぎ込まれました。このキリストによって、アダムの罪に死んでいた者たちが新しく生きることができます。
 このキリストの救いの恵みについて、パウロは「まして」という言葉を繰り返し使いながら、キリストの恵みは罪の力よりはるかに勝り、満ちあふれるほどであると言います。洪水が家々を軽々と押し流すように、キリストの恵みは罪と死の支配を押し流し、命を与えます。
 その満ちあふれるキリストの恵みは、あの十字架において頂点に達しました。罪の深さが頂点に達したとき、救いの恵みも頂点に達し、満ちあふれて、全ての罪人を救う恵みとなりました。私たちは洗礼によってキリストと結びつき、その恵みに与ります。もはや、最初の人アダムとのつながりによって生きるのではなく、キリストと結ばれて、神の子として生きるのです。罪の力がどんなに強くても、キリストの救いの恵みははるかに勝って強いからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



4月29日(日)
「寄り添ってくださる主」
(ヨハネ5:1-9)

 エルサレムのベテスダの池に、38年もの間、病気に苦しんでいる人が横たわっていました。その池は、時折神の使いが降りて来て水を動かし、真っ先に池に飛び込んだ人はどんな病でも癒されると信じられていました。そのため、多くの病人がその池の周りに集まっていました。
 この池にやってきた主は、この男性をじっと見つめ、「なおりたいのか」と声をかけられました。病人に対してそのような言葉をかけることは、普通は極めて失礼なことでしょう。けれどもこの人は、主イエスの言葉に怒るわけでもなく、「なおりたいです」と素直に答えるのでもなく、「水が動く時に、わたしを池に入れてくれる人がいません」と答えました。誰も自分のことを気に掛けてくれる人はいない、と言うのです。周りに多くの病人仲間がいたにも関わらず、彼は孤独だったのです。
 さらに、「わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」と述べて、みんな自分のことしか考えない、と不満を口にしました。このように心がねじけている人は、誰からも疎まれてしまうことでしょう。けれども主イエスは、この人の傍らに坐り、彼らの言葉を否定するのではなく、その心の叫びをそのままで聞かれました。彼らの苦しみをそのまま受け止められたのです。主イエスは友のいない彼に寄り添ってくださいました。彼にとり、主イエスはまさに救い主となられました。
 その主が、「起きて、歩きなさい」と命じられたとき、彼はそれに答えることができました。寄り添ってくださる主に信頼し、その言葉に応える力が与えられたのです。主の寄り添いが彼に力を与えたのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



5月6日(日)
「新しくされる主の証人」
(イザヤ43:8-21)

 今年の聖句である「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る」と主が告げられたとき、イスラエルの民はバビロン捕囚のただ中にあり、新しい神のみわざへの期待など薄れ、信仰において疲れ果てているときでした。そのような民に対して、驚くべき救いのわざをなしてくださるとの約束が告げられました。
 主が捕囚の民をバビロンから救い出してくださるのは、神の民としての使命をもう一度回復させるためでした。彼らは、神のために、神の栄光を表す器として選ばれ、神の民として立てられたのです。「この民は、わが誉を述べさせるためにわたしが自分のために造ったものである」。
 そのことを言い換えて、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである」と主は言われました。神を信じない異邦の民の中にあって、イスラエルは神を証しする証人として立てられているというのです。彼らが証しする内容は、「主こそ神である。ほかに救い主はいない」ということでした。
 これは、新しいイスラエルと呼ばれる教会についても同じです。教会が主によってこの世に建てられているのは、キリストの証人となるためです。世の人々に対して、「十字架につけられたナザレのイエスこそ、神の子救い主」と告げるためです。礼拝と宣教とは本来、決して切り離されるものではありません。神に向かって、「あなたこそ主」と告白するとき、それは礼拝となり、世に向かって「イエスは主なり」と告げるとき、それは宣教のわざとなります。
 主は私たちの教会に対しても、主の証人として生きるための新しいわざを始めようとしておられます。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



5月13日(日)
「礼拝へと至る救い」
(ヨハネ4:1-26)

 主イエスがサマリヤのスカルという町を訪れたとき、一人で井戸に水を汲みに来た女性と出会いました。対話の中で、彼女の乱れた生活が明らかにされました。彼女は心の空しさを癒すために、これまで次々と男性を変えていたのです。そのために、人々からは軽蔑され、いよいよ孤独と空しさは深く大きくなりました。
 主イエスはそのような彼女を見捨てることなく、あなたの心の渇きを癒す、私が与える水を飲みなさい、と招かれました。彼女は主イエスによって、その存在が無条件に肯定される経験をしました。彼女にとってそれは、救い主との出会いでした。
 彼女はこのとき、突然のように礼拝に関する話題を持ち出します。それまで神ならぬものを神のように慕い求めてきた、偶像礼拝に陥っていた自分の姿に気づいたとき、神を真実に礼拝することが一番の関心事となったのです。そのように、キリスト教信仰において、救われるということは、神ならぬものを神のようにして礼拝していたところから、イエス・キリストの父なる神だけを礼拝するように変わることです。
 彼女が、「キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています」と主イエスに告げると、「このわたしがそれである」と主は答えられました。彼女は、「イエスこそキリスト」と信じたのでしょう。町の人々のところへ行き、「この人がキリストかも知れません」と告げます。控え目ではありますが、これが彼女の信仰告白であり、それが世の人々への宣教の言葉になりました。
  「イエスは主」と告白して救われた礼拝者は、「この方こそ救い主」と告げる宣教者とされるのです。 
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



5月20日
「聖霊に導かれる主の証人」
(使徒行伝1:1-11)

 復活された主イエスは、天に帰られる直前、父なる神が約束された聖霊が降るのを待っているようにと弟子たちに言われました。その聖霊が降るとき、弟子たちは力を受けて、地の果てまで主の証人となる、というのです。最後の晩餐の席でも、聖霊について紹介されたとき、「わたしについて証しをするだろう」と言われました。聖霊の中心的な働きは、キリストを証言することでした。
 ペンテコステの日、主が言われたとおりのことが起こりました。聖霊が降ったとき、ペテロは弟子たちを代表して大胆にキリストを証しし、「十字架につけられたイエスこそキリストである」と人々に語りました。その結果、キリストを信じて洗礼を受けた人たちは三千人にも上り、教会が地上に初めて誕生しました。
 かつてペテロが「あなたこそキリスト」と告白したとき、主イエスは、その告白をさせたのは神のわざであり、その確かな信仰を土台として教会を建てると約束されました。教会は、「イエスは主」と告白するところに建てられます。けれどもその告白は人間の力では出来ません。パウロも、聖霊の導きがなければ、「イエスは主」と告白できないことを語っています。ペテロも、主イエスが捕らえられたとき、「イエスなど知らない」と否定しました。信仰告白を貫くことができなかったのです。
 ペテロだけでなく、私たちも信仰を公にすることによって自分の立場が悪くなるようなとき、聖霊の導きと助けがなければ、「イエスは主」と告白することができません。だからこそ、聖霊の助けを私たちは常に仰ぎます。私たちは聖霊の導きによって、主の証人として生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



5月27日(日)
「神のわざとしての洗礼の恵み」
(ローマ6:1-14)

 5章の終わりで、「罪が増し加わったところに、恵みも満ちあふれた」と語ったパウロは、「それならば、私たちは罪の中に留まるべきか」という反論に対して、「断じてそうではない」と強く否定します。罪に対して死んだ、すなわち、罪赦された者がどうして罪の中に生きることがあるか、と反問します。
 パウロは、私たちの救いの確かさ、罪の赦しの確かさを洗礼との関わりで説明しています。「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである」と。洗礼とは、キリストと一つになることだと言います。そして、洗礼によってキリストと一つとされた者は、キリストの死とも一つに結び付けられたというのです。それによって、私たちはすでに「罪に対して死んだ」と語ります。
 この「罪に対して死んだ」とは、何一つ罪を犯さなくなったという状態を表しているのではありません。それまでの罪との関係が断ちきられたというのです。かつては、罪が主人となり、私たちを支配していました。しかし、キリストが私たちのために十字架にかかってくださったことにより、私たちを罪の支配から解放してくださいました。私たちにとってもはや罪が主人ではなく、「イエスは主」と告白して生きる者とされました。洗礼によって、罪との関係が完全に断ちきられたのです。神がそのようにしてくださったからです。洗礼はあくまで、人間のわざではなく、神の恵みのわざです。
 私たちに求められていることは、差し出されている恵みを「アーメン」と感謝して受け取るだけなのです
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



6月3日(日)
「救いを与える洗礼」
(ローマ人への手紙6章1-14節)

 パウロは、罪の赦しとしての救いを洗礼との関わりで語ります。主イエスご自身も、弟子たちを宣教に遣わすにあたり、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)と語りました。弟子たちも、ペンテコステの日にペテロの説教を聴いて心刺された人々に対して、「罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」(使徒2:37)と勧めました。信仰と洗礼は切り離されるのではなく、キリストを信じて洗礼を受けることによって救われるというのが新約聖書が教えていることです。
 救われるために、なぜ信じるだけでなく、洗礼を受ける必要があるのでしょうか。洗礼とは、キリストと一つになることです。それにより、私たちはキリストの死にも結ばれます。このとき、私たちが忘れてはならないことは、私たち人間がキリストと同じようになる前に、神の子キリストが人間と同じようになってくださり、また同じ洗礼を受けてくださったということです。主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられましたが、それは自らの罪の赦しを得るためでなく、私たち罪人と一つとなるために、人間に連帯するために洗礼を受けられました。そのキリストが罪人の総代として十字架にかけられ、復活されました。
 このキリストが成し遂げてくださった十字架と復活の恵みにあずかるため、私たちはキリストと一つとなる洗礼を受けます。洗礼は、キリストと一つに結ばれる場所です。洗礼によって、アダムの流れに生きていた者たちが、キリストの流れへと移されます。それにより、キリストの十字架は私のため、と言うことができるのです。その信仰告白として、私たちは洗礼にあずかるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



6月10日(日)
「共につけられた十字架」
(ローマ人への手紙6章1-14節)

 洗礼によってキリストと一つに結ばれたということは、十字架で死なれたキリストの死にも結び合わされたのだとパウロは語ります。そのことを言い換えて、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた」(6)と言います。古き人とは、救われる以前の生き方のことです。世界の歴史がキリストの誕生を境にしてBCとADに分けられるように、私たちの人生も、洗礼を境として、古き人と新しい人とに分けられます。それは、最初の人アダムに連なる生き方と、キリストに連なる生き方との違いを指します。
 洗礼によって、そのような古き人がキリストと共に十字架につけられて死んだのだ、とパウロは言います。それによって、私たちはもはや罪の奴隷となることがありません。罪との主従関係が断ちきられたことによって、私たちを支配していた罪の命令に従う必要がなくなったのです。これは、神の目からご覧になった私たちの姿です。自分たちの目には、私たちがいまだ罪の奴隷として、罪の支配下に生きているように見えるかもしれません。そのような私たちに、神は喜びの知らせを語ってくださいます。あなたがたはすでに、キリストと共に十字架につけられたではないか。罪と死の力から解放されたではないか、と。
 パウロは、「わたしたちは、この事を知っている」と語ります。「知っている」とは、「信じている」ということです。そして私たちにも、このキリストによる恵みを信じ受け取ろうではないかと勧めます。私たちはもはや、罪を主人として生きる古い人ではありません。キリストを主と仰ぐ新しい人とされたのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



6月17日(日)
「新しい命に生きる」
(ローマ人への手紙6章1-14節)

 洗礼によってキリストと一つに結ばれた私たちは、キリストが十字架で死に、3日目に甦られたように、私たちもキリストと共に死に、キリストと共に生きる者とされました。バプテスマについて語っているこの箇所で、パウロは繰り返しこの真理を述べています。
 そのように、キリストと共に甦らされたことを「新しいいのち」と表現しました。洗礼を受ける前の、最初の人アダムに連なるいのちのことを「古き人」と呼ぶのに対照させて、キリストに結ばれた新しいいのちを生きているのだ、と言うのです。
 その新しいいのちとは、もはや罪を主人として、その奴隷として生きるのではなく、キリストを新しい主人として生きることです。これは神の恵みによるわざであり、「あなたがたはもはや罪の奴隷ではなく、キリストのものとされたではないか」と言われているのです。だからこそパウロは、「あなたがた自身も、……認むべきである」と勧めます。これは、罪に対して死になさいと命じられているのではなく、あなたがたはすでに罪に対して死んだ者、新しいいのちに生きている者なのだ、ということです。
 パウロが「認むべきである」と語るのは、私たちがこの恵みの事実をなかなか認めようとしないことがあるからです。罪の力のほうを信じてしまい、依然として罪の囚われの中に生きているように思ってしまいます。パウロはそのような私たちに、主と一つとなる洗礼により、私たちは今や罪の奴隷から解放され、新しいいのちに生きる者とされたのだ、と語ります。この恵みに答えて、「あなたこそ主」と告白するのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

2017年  1月~3月  4月~6月 7月~9月 10月~12月
2016年  1月~3月  4月~6月 7月~9月 10月~12月
2015年  1月~3月  4月~6月 7月~9月 10月~12月
2014年  1月~3月  4月~6月 7月~9月 10月~12月
2013年  1月~3月  4月~6月 7月~9月 10月~12月 
2012年 10月~12月 9月~10月 4月~6月 1~3月
2011年 10月~12月 7~9月 6月 5月 4月 3月 2月 1月 
2010年12月
 11月 10月 9月 8月 7月 6月



 トップページへ戻る