礼拝メッセージ要約(説教者による)  
2018年1月~3月*

1月1日(月)
「いま始まる、新しい神のわざ」
(イザヤ43:14-21)

 神の民イスラエルは神に背き続けたために国が滅び、指導者たちはバビロンへと連行されました。捕囚の身となった最初のうちは、神がまもなく国を復興してくださるとの期待を持っていましたが、時間が経つうちにその期待は薄れ、人々の心は空しさで覆われていきました。
 将来に希望が持てなくなると、人々は過去の歴史に慰めを求め、イスラエルにとっての救いの原点である出エジプトの奇蹟を繰り返し思い起こしました。けれどもそれは、自分たちをエジプトの国から救い出してくださった神が、このバビロンからも救い出してくださるに違いない、というのではありませんでした。かえって、出エジプトの奇蹟を起こしてくださった神が、今は何もしてくださらない、と不満を表明するようになっていました。
 そのような民に対して、預言者は驚くべき神の言葉を語ります。あなたがたは、さきの事、すなわち、出エジプトの奇蹟ばかりを思い起こすのはやめなさい、と。神による新しいわざに期待するためには、過去との訣別が必要でした。その上で、「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる」と告げられました。出エジプトのときとは異なる、全く新しいわざを神ご自身が行ってくださるというのです。しかも、そのみわざはすでに始まっていると言われます。それは、人間の力が尽きたときにこそ始まる神のみわざでした。
 今も、私たち信仰者がその信仰に疲れ、自分たちの側の可能性が尽きたようなとき、神はそこから新しいみわざを行ってくださいます。この神の言葉に励まされ、私たちは前に向かって歩みを進めていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



1月7日(日)
「罪を思い出さない神」
(イザヤ43:14-28)

 出エジプトの奇蹟のみわざばかりを思い起こしていた捕囚の民に対して、主は「さきの事を思い出してはならない」と言われました。過去における神の恵みのわざの思い出が、新しいみわざを期待するのをかえって妨げていたからです。
 さらに神は、「もうあなたの罪を思い出さない」と言われました。このとき彼らは、先祖から続く背きの罪のために神の裁きを受け、長い間囚われの身となっていました。その自分たちの罪を否定することなどできず、自分で自分を救う、自己救済の可能性もありませんでした。  彼らに残された救いの道は、神によって罪を赦していただくしかありませんでした。だからこそ、主は「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」と言われました。民の功績などではなく、神の側の一方的な憐れみによって、民の罪を赦すというのです。
 罪を忘れるといっても、それは決して簡単なことではありませんでした。その方法は、「あなたの罪の重荷をわたしに負わせ」とあるように、主ご自身が彼らの罪の重荷を背負うことによってでした。「負う」という言葉は、名詞になると「しもべ」という言葉になります。イザヤ書は後半にかけて、神によって遣わされた苦難のしもべを紹介します。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」(53:4)。
 この預言は、御子キリストにおいて成就しました。主イエスが十字架で私たちの罪を負うことにより、救いが与えられました。キリストのゆえに、神は私たちの罪をもはや思い出さない、と告げてくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



1月14日(日)
「ひれ伏す喜びの礼拝を」
(詩篇95篇1-11節)

 詩人は私たちを神を礼拝する喜びへと招いています。その礼拝とは、神の前にひれ伏すことです。私たちプロテスタント教会では、文字通りひれ伏すことはしません。問題は、その心において神の前にひれ伏しているかということです。説教を聞きに来ても、そこで神を礼拝していないことがあるからです。
 人は、神の本当の偉大さを知ったならば、命じられなくてもひれ伏すものです。私たちの問題は、神の大きさが分からず、神を小さな存在にしていることでしょう。神の前に自分を低くすることによって、礼拝の心を表すものですが、私たちは神の前に自分が大きくなり過ぎています。そればかりか、礼拝においても、自分を大きくすることを追い求めてしまいます。これでは、ご利益を得るためにお参りをする世の宗教と何も変わりません。神の前にひれ伏す真実な礼拝をささげることこそ、被造物である私たち人間に必要なことです。神を礼拝しないとき、人は自ら神になってしまうからです。
 そして、人間が神にならないように、神が人となってこの世に来てくださいました。神の本当の偉大さは、私たちの救いのために、御子キリストが十字架にかかってくださったことにあります。神がまず、私たちを御子イエスの命と引き換えにするほどに価値あるものとしてくださいました。その恵みに感謝して、「わたしたちにとり、あなたこそ最も価値あるお方です」と告白する礼拝をささげるのです。
 礼拝の中心に主が臨在しておられると信じて、真実な礼拝をささげるように呼びかけられています。大きな喜びへと招かれているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



1月21日(日)
「神の言葉に聴く礼拝」
(詩篇95篇1-11節)

 神のみ前にひれ伏す真実な礼拝へと招いた詩人は、「どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように」と勧めます。プロテスタント教会の礼拝の中心は、神の言葉の説き明かしである説教を聴くところにあります。神の言葉を神の言葉として聴く姿勢をもって、「あなたこそ私たちの神」という信仰を告白し、礼拝の心を表します。詩人はこの命令を喜びの知らせとして語ります。礼拝者は神の声を聴くことによって、新しい命に生かされるからです。
 詩人が「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」(新共同訳)と強い口調で命じるのは、かつてイスラエルの民が、荒野で神の声に聞き従わず、神と争い、神を試みたことがあったからです。それにより、その世代の人々は荒野で死に絶えてしまいました。神の言葉を神の言葉として聴くことは、信仰者にとって、生きるか死ぬかがかかっています。
 しかし、人生の荒野を通るとき、私たちの心は硬くなり、神の言葉を神の言葉として聴けなくなります。神の言葉よりも、人間の言葉に聴こうとしてしまうのです。それゆえ、詩人は「あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない」と語ります。
 この勧めを語る前、詩人は神と礼拝者との関係を羊と羊飼いとの関係にたとえて語りました。「われらはその牧の民、そのみ手の羊である」。羊が羊飼いの声を聞くことによって生きることができるように、私たちは羊飼いなる主の声を聞くことによって生きることができます。十字架で命をかけてくださった主の言葉は、私たちを生かす言葉だからです
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



1月28日(日)
「不信心な者を義とする神」
(ローマ4:1-8)

 全ての人は行いによるのではなく、信仰によって義とされることを例証するために、パウロは信仰の父アブラハムを登場させます。私たちは、自分はアブラハムのような立派な信仰などない、と思ってしまいます。そのように考えることによって、信仰という名の良き行いに変質させ、形を変えた行為義認に陥ります。
 パウロはここで、アブラハムを立派な信仰の持ち主として紹介するのでなく、行いのない人、不信心な者の代表として連れ出します。そのアブラハムについて、聖書は「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」と語ります。
 このときの出来事は創世記15章に記されていますが、アブラハムは簡単に神の言葉を信じたわけではありませんでした。子どもが与えられなかったアブラハムは、跡取りとして養子を迎える予定であると主に答えました。これに対して主は、アブラハムから生まれる子が跡継ぎとなることを語り、それを確かなものとするために、星空を見せながら、その星のように子孫が増え広がるとの約束を与えました。この神の力強い言葉に押し切られて、アブラハムは主を信じました。神の約束を受け取ったアブラハムに対して、主は「それでよし」と言われたのです。
 アブラハムだけでなく、イスラエルの最高の王ダビデも、姦淫と殺人の罪を犯したときに、行いがないにもかかわらず、神の一方的な恵みと憐れみによって罪赦されました。
 アブラハムやダビデがそうであるように、私たちも、不信心な者を義としてくださる神に押し切られるようにして、主を信じ、それによって義と認めていただくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



2月4日(日)
「私たちにも及ぶ救いの恵み」
(ローマ4:9-25)

 行いによらず信仰によって義とされる幸いは誰に及ぶのかについて、割礼の者だけでなく、無割礼の者にも及ぶことを、パウロは再びアブラハムを例にあげて語ります。パウロがわざわざこのことを語るのは、ユダヤ主義キリスト者たちが、異邦人が救われるためにはまず割礼を受けて、ユダヤ人と同じようになってからであると言っていたからです。信仰によって義とされることを否定しないものの、信仰プラス割礼であると主張していました。
 そこでパウロは、アブラハムが義とされたのは、割礼を受ける前のとき、無割礼のときであったと指摘します。割礼がなくても、アブラハムは神に義と認められたのです。その後に受けた割礼は、神に義と認められたことのしるし、証印であると言います。ユダヤ主義者たちは、義認と割礼によるしるしとの関係性を逆転させてしまい、割礼を受けなければ義とされない、と主張しました。
 これは律法との関係においても同じです。人は律法を守り行うことによって義とされるのではなく、一方的な神の恵みを感謝して受け取ることによってのみ、救いにあずかることができます。ところがわたしたちは、ユダヤ人たちが割礼を重んじたように、信仰にプラスして、人間側の行いを救いの条件にしようとしてしまいます。
 パウロは改めてそれを否定し、「すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって」と告げます。何の行いもない者たちが、主がわたしたちの代わりに十字架にかかってくださったゆえに、救いがもたらされました。わたしたちはただ恵みを感謝して受け取るだけなのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



2月11日(日)
「あとからでも遅くない」
(マタイ21:28-32)

 自分たちの正しさを主張する祭司長やパリサイ人たちを前にして、主イエスはたとえで話されました。ある父親が二人の息子たちにぶどう園へ行って手伝うようにお願いしました。すると、兄は「はい」と返事をしたものの、実際には行きませんでした。一方の弟は、「嫌です」と一度は断ったものの、あとで心を変えて手伝いに行きました。
 このたとえ話は、神の目に映る人間の姿を描いています。祭司長たちは神に従っているように見えながら、実際には神の心に背くような生き方をしていました。それに対して、罪人と呼ばれる取税人や遊女たちは、心を変えて神のもとへ帰ってくることによって、父なる神の望みどおりのことをしたのです。
 主イエスはこれを語りながら、わたしたちが同じように心を変えて父なる神のもとへ立ち帰るようにと呼びかけておられます。ところがわたしたちは、素直に心を変えて神のもとへ帰ることができないことがあります。神のことを気むずかしい父親であるかのように誤解して、そう簡単には受け入れてくださらないように思っているからです。
 しかし、主イエスが紹介しておられる父なる神は、あとで心を変えて戻ってくる者に対して、「わたしの望みどおりにしてくれた」と喜んで迎え入れてくださるお方です。だからこそ、わたしたちは勇気をもって神のもとへ帰ることができます。
 そして、神のもとへ帰ることにおいて、遅すぎることは決してありません。主イエスと一緒に十字架にかけられた強盗が、死の間際に悔い改めたように、神は最後までわたしたちの立ち帰りを待っておられます
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



2月18日(日)
「不信仰な者に望みを与える神」
(ローマ4:13-25)

 信仰によって義とされたアブラハムについて、パウロは「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」と語ります。「死人」とは、年老いていたアブラハムは、もはや新しい命を生み出す可能性はなかったことを示します。アブラハムもサラも、「望み得ない」状態になっていたのです。
 このため、神の約束の言葉を聞いたとき、アブラハムもサラも、神の言葉を笑いました。自分たちの体の衰えに絶望していたため、神の言葉を笑うしかなかったのです。
 このような絶望状態から、本当の信仰が生まれました。それは自分の力への信仰ではなく、神だけを頼みとする信仰です。自分たち内には可能性がないことを認めながらも、それに囚われず、自分たちの状況を絶対化しないのです。絶望を信じず、疑いを疑うところから、その信仰が生まれます。それが「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」という態度です。
 アブラハムがそのような信仰に立つことができたのは、自分の力によるのではありません。「かえって信仰によって強められ」とあるのは受け身であり、神がアブラハムを強めてくださったということです。それは神がアブラハムの不信仰をも絶対とせず、彼の疑いを笑い飛ばしておられたからです。そして、疑うアブラハムに繰り返し約束の言葉を語られました。この神の信仰に押し切られるようにして、「あなたの言葉は真実です」と受け止めました。
 私たちが救われるのも、自分の力によってではありません。神の力強い福音の言葉によって向きを変えさせていただくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



2月25日(日)
「神との平和」
(ローマ5:1-11)

 信仰によって義とされた恵みについて、「神に対して平和を得ている」とパウロは表現しました。この平和とは、心に感じる平安ということではなく、神との間に平和の関係が築かれていることを意味します。この言葉は、ヘブル語の「シャローム」という言葉の意味を受け継ぎ、ただ争いがない状態ではなく、満ち足りて完全に良い状態を表します。
 このように語るのは、救われる以前は、神との間に不和があり、敵対関係にあったことを前提としています。わたしたちの問題は、自分が神に敵対していることに気づいていないことです。しかし、聖書が語る罪とは、わたしたちを創造された神を無視して生きることです。そのとき、人は神ならぬものを神とし、それを頼みとして生きてしまいます。それが神に敵対している人間の姿です。
 そのように神に敵対している者たちは、自分の力で平和を得ることはできません。パウロは、この平和は主イエス・キリストによって与えられたと語ります。それは「神との和解を受けた」(10)ということです。その和解は、神とわたしたちの両者がそれぞれ歩み寄って和解した、というのではありません。父なる神が御子キリストをこの世に遣わし、わたしたちの身代わりとして十字架にかけてくださいました。神の一方的な恵みのわざによって、わたしたちに和解がもたらされたのです。
 わたしたちにできることは、差し出された恵みを感謝して受け取るだけです。パウロは、キリストによってもたらされた神との平和を手放すことなく、そこに留まり続けるようにと勧めます。わたしたちには神との平和が与えられているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



3月4日(日)
「気前のいい主人」
(マタイ20:1-16)

 ぶどう園のある主人が労働者を一日1デナリという契約で雇うために、求職中の人々が集まる広場に出かけました。朝の6時、9時、12時、午後の3時、仕事が終わる1時間前の夕方5時と、主人は何度も広場に足を運び、次々とぶどう園に連れて行きます。そして労働時間の長さ、仕事の量、努力と苦労の違いに関わらず、全員に1デナリを払いました。 朝一番で雇われた人たちは、それは不公平ではないか!と主人の気前の良さに文句を言いましたが、主人は「最後の人にもあなたと同様に払ってやりたいのだ」と諭しました。
 このたとえ話の主人は神であり、雇われた人はわたしたちです。そしてこの1デナリは「救い」です。神はどんな人にも救いを与えてくださるお方です。その救いは人間の頑張りや働き、良い行いに対する報酬として与えられるものではありません。わたしたちは救われるに値しません。しかし全くふさわしくない者であるにも関わらず、ただ主イエスの十字架の恵みによって救われるのです。
 最後に滑り込んで1デナリを与えられた人は、自分のような者が他の人と同じように受け入れられ、愛され、同じ恵みを受けたことに気づいた時、主人の気前のよさにどんなに感謝したことでしょうか。それは、神の一方的な恵みによって愛され、罪赦されて神の子としていただいたわたしたちの姿です。神はこの気前のよすぎる愛、1デナリという名の救いを差し出しながら、「さあ、私のもとに来なさい」とわたしたちを招いておられるのです。 
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)



3月11日(日)
「苦難をくぐり抜けて」
(ローマ5:1-11)

 パウロは神との平和が与えられた者として、「患難をも喜んでいる」と語ります。患難の中でも喜ぶというのではなく、患難そのものを喜ぶと言います。わたしたちは苦しみは喜びを奪い去るものとして、急いで取り除きたいと願うものです。
 パウロは、患難をも喜ぶ理由として、「患難は忍耐を生み出し」と説明を始めます。大きな苦難に襲われるとき、そこから逃げ出したいと思うものですが、神を信じる者たちは、なおそこに踏みとどまります。苦しみの中にあって、神の目が注がれていることを信じるからです。
 さらに、「忍耐は錬達を生み出し」と続きます。錬達とは、金属を熱して不純物を取り除くことを意味します。苦難を耐え忍ぶことをとおして、信仰における不純物が取り除かれていき、本物の信仰者へと形づくられていく、ということです。これらは工場で製品が造られるときのように自動的に生み出されるものではなく、神の御手の中で時間をかけて整えられていくものです。
 そして、「錬達は希望を生み出す」と続きます。それは自分の可能性にかける希望ではなく、「神が確かにおられる」という信仰に基づく希望です。パウロは、「希望は失望に終わることはない」と断言します。
 その理由として、「わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」と言います。どんなに大きな苦しみが襲ってきても、御子キリストを十字架に与えてくださった神の愛は決して変わることなく、わたしたちを裏切ることはありません。この神の愛に支えられて、苦難をもくぐり抜けることができるのです
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



3月18日(日)
「わたしについてきなさい」
(マタイ4:12~22)

 ガリラヤ湖のほとりを歩いていた主イエスは、湖で漁をしているペテロとアンデレをご覧になり、彼らの日常に入り込むようにして、「わたしについてきなさい。」と声をかけました。すると彼らは、すぐに網を捨てて主イエスに従いました。漁師という仕事を捨て、主イエスの弟子となる道を選んだのです。
 彼らは、漁師として代わり映えのしない日々を送りながら、思い通りにならない現実や、突然の痛みや苦しみを経験する中で、将来への希望と生きる意味を見失っていました。日々の生活の中に、神がおられなかったからです。主イエスは、暗黒と死に支配されて生きていた彼らに、希望といのちを与るために、彼らの生活の中にまで入ってこられました。彼らの人生に伴い、彼らと共に歩みたいと、強く願われたのです。
 「わたしについてきなさい。」これは、「わたしはこれから、どんな時にもあなたと共にいよう。」という約束の言葉です。主イエスの言葉から希望といのちを受け取ったペテロとアンデレは、大きな喜びをもって主イエスに従っていきました。
 今、主イエスは、聖霊によって私たちの生活の中にもおいでになって「わたしについてきなさい。」と招いておられます。どんな時でも、主イエスは私たちと共におられ、愛の御手をもって導いて下さいます。ここに、私たちの希望があります。主イエスが与える希望とは、「たとえ明日が嵐の日であっても、それも、私を愛しておられる方の手の中にある」と信じられることです。私たちは主イエスの言葉によって、未来への不安から解放されて、今を精一杯生きるようになるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)



3月25日(日)
「注がれた愛」
(ルカ7:36-50)

 主イエスがパリサイ人シモンの家に食事に招かれたとき、罪の女が入って来て、主の足もとに行き、涙でその足をぬらし、髪の毛でふき、足に口づけし、香油を注ぎました。
 これを見ていたシモンは心の中でこの女をさげすみ、されるがままの主イエスに対しても非難の目を向けました。罪の汚れが移るような行為をされるままにするのは預言者らしくない、というのです。
 そこで主イエスは一つのたとえをシモンに話されました。ある金貸しに500デナリと50デナリを借りていた二人の人がいたが、二人とも返すことができなかったので、この金貸しは二人の借金を帳消しにしてあげたというのです。聖書では、よく罪は負債にたとえて語られます。私たちは皆、返すことが出来ないほどの大きな負債を神に対して負っている者たちです。それにもかかわらず、私たちはお互いの罪の大きさを比較して、自らを誇り、また他の人を蔑んだりします。私たちは皆、神の前では同じ罪人なのです。
 主イエスはこのたとえの後、シモンに対して、「二人のうち、どちらの人が多く金貸しを愛するか」と問われました。シモンは正しく、「多く赦された人です」と答えました。主イエスは続けて、この女の行為について、多くの赦しを受けているからこそ、多くの愛を表したのだと語られました。この女の行為を、赦しを与える主への感謝を表す愛として受け止められたのです。
 主イエスは私たちの罪を赦すため十字架にかかり、愛を注いでくださいました。私たちも多くの罪を赦された者たちです。それゆえ、私たちは主に愛を表して生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



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