「神が私たちと共におられる」
(マタイ1:18-25)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 夢でヨセフに現れたみ使いが、生まれてくる救い主の名を「イエス」と名づけるように告げました。著者マタイは、救い主のもう一つの名として、イザヤ書の聖句を引用して紹介しました。「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と。それは「神われらと共にいます」という意味を持つ名前でした。マタイがこの二つの名を並べて紹介したのは、神が私たちを救ってくださるということは、神がどんなときにも共におられる、ということだからです。
 神が私たちと共にいてくださる、という聖句を読むとき、自分はこの「われら」の中に含まれないのではないかと思ってしまいます。罪があるからです。マタイは、まさにそのような罪人と共におられる神として救い主が誕生されたことを伝えようとして、救い主イエスに至る系図を記します。アブラハムから始まるこの系図は、決して聖人の系図ではなく、悲しい罪人たちの系図です。そのような系図のただ中に救い主が来られた!とマタイは語ります。
誰かといつまでも共にいるということは、決して簡単なことではありません。まして、自分に害を与える人と共にいることは、自分が傷つくことを覚悟しなければなりません。神が罪人と共にいることを決意されたとき、それは十字架の死に至るまで共にいることを意味しました。たとえ自分が捨てられても、神は私たちを捨てることはないのです。
 たとえ私たちがどんなに罪に汚れていても、救い主は共にいてくださいます。主イエスは世を去る直前、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と語られました。どんなときも神が共におられるからこそ、私たちもこの神と共に生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)