「救いを与える洗礼」
(ローマ人への手紙6章1-14節)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 パウロは、罪の赦しとしての救いを洗礼との関わりで語ります。主イエスご自身も、弟子たちを宣教に遣わすにあたり、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)と語りました。弟子たちも、ペンテコステの日にペテロの説教を聴いて心刺された人々に対して、「罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」(使徒2:37)と勧めました。信仰と洗礼は切り離されるのではなく、キリストを信じて洗礼を受けることによって救われるというのが新約聖書が教えていることです。 
 救われるために、なぜ信じるだけでなく、洗礼を受ける必要があるのでしょうか。洗礼とは、キリストと一つになることです。それにより、私たちはキリストの死にも結ばれます。このとき、私たちが忘れてはならないことは、私たち人間がキリストと同じようになる前に、神の子キリストが人間と同じようになってくださり、また同じ洗礼を受けてくださったということです。主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられましたが、それは自らの罪の赦しを得るためでなく、私たち罪人と一つとなるために、人間に連帯するために洗礼を受けられました。そのキリストが罪人の総代として十字架にかけられ、復活されました。 
 このキリストが成し遂げてくださった十字架と復活の恵みにあずかるため、私たちはキリストと一つとなる洗礼を受けます。洗礼は、キリストと一つに結ばれる場所です。洗礼によって、アダムの流れに生きていた者たちが、キリストの流れへと移されます。それにより、キリストの十字架は私のため、と言うことができるのです。その信仰告白として、私たちは洗礼にあずかるのです。 
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)