「神のわざとしての洗礼の恵み」
(ローマ6:1-14)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 5章の終わりで、「罪が増し加わったところに、恵みも満ちあふれた」と語ったパウロは、「それならば、私たちは罪の中に留まるべきか」という反論に対して、「断じてそうではない」と強く否定します。罪に対して死んだ、すなわち、罪赦された者がどうして罪の中に生きることがあるか、と反問します。 
 パウロは、私たちの救いの確かさ、罪の赦しの確かさを洗礼との関わりで説明しています。「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである」と。洗礼とは、キリストと一つになることだと言います。そして、洗礼によってキリストと一つとされた者は、キリストの死とも一つに結び付けられたというのです。それによって、私たちはすでに「罪に対して死んだ」と語ります。 
 この「罪に対して死んだ」とは、何一つ罪を犯さなくなったという状態を表しているのではありません。それまでの罪との関係が断ちきられたというのです。かつては、罪が主人となり、私たちを支配していました。しかし、キリストが私たちのために十字架にかかってくださったことにより、私たちを罪の支配から解放してくださいました。私たちにとってもはや罪が主人ではなく、「イエスは主」と告白して生きる者とされました。洗礼によって、罪との関係が完全に断ちきられたのです。神がそのようにしてくださったからです。洗礼はあくまで、人間のわざではなく、神の恵みのわざです。 
 私たちに求められていることは、差し出されている恵みを「アーメン」と感謝して受け取るだけなのです 
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)