「新しくされる主の証人」
(イザヤ43:8-21)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 今年の聖句である「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る」と主が告げられたとき、イスラエルの民はバビロン捕囚のただ中にあり、新しい神のみわざへの期待など薄れ、信仰において疲れ果てているときでした。そのような民に対して、驚くべき救いのわざをなしてくださるとの約束が告げられました。 
 主が捕囚の民をバビロンから救い出してくださるのは、神の民としての使命をもう一度回復させるためでした。彼らは、神のために、神の栄光を表す器として選ばれ、神の民として立てられたのです。「この民は、わが誉を述べさせるためにわたしが自分のために造ったものである」。 
 そのことを言い換えて、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである」と主は言われました。神を信じない異邦の民の中にあって、イスラエルは神を証しする証人として立てられているというのです。彼らが証しする内容は、「主こそ神である。ほかに救い主はいない」ということでした。 
 これは、新しいイスラエルと呼ばれる教会についても同じです。教会が主によってこの世に建てられているのは、キリストの証人となるためです。世の人々に対して、「十字架につけられたナザレのイエスこそ、神の子救い主」と告げるためです。礼拝と宣教とは本来、決して切り離されるものではありません。神に向かって、「あなたこそ主」と告白するとき、それは礼拝となり、世に向かって「イエスは主なり」と告げるとき、それは宣教のわざとなります。 
 主は私たちの教会に対しても、主の証人として生きるための新しいわざを始めようとしておられます。 
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)