礼拝メッセージ要約(説教者による)  
2017年10月~12月*

10月1日(日)
「歪んだ罪の論理を捨てて」
(ローマ3:5-8)

 パウロによってユダヤ人も異邦人と同じように罪人であると言われた彼らは、神の正しさを問題にします。ユダヤ人の不義によって神の義が明らかになるなら、怒りを下す神は不義なのではないか、と。このユダヤ人のように、罪を指摘されてもそれを素直に認めようとせず、どこまでも自分を正当化しようとする人がいます。屁理屈を並べ立ててでも、自分は正しいと主張します。そこが崩れてしまっては、自分の存在の基盤が崩れてしまうからです。
 パウロは、「断じてそうではない」とこれを断固として否定します。神が不義であったら、もはや神が世をさばくことができなくなるではないか、と言うのです。
 それでも、ユダヤ人の屁理屈は続きます。私たちの罪のおかげで神の真実、栄光がより鮮やかに表されるのであれば、どうして罪人としてさばかれなければならないのか。むしろ、神の栄光のために、大いに悪を行おうではないか、と福音を曲解する人々さえいました。
 これに対してパウロは、「彼らが罰せられるのは当然である」と語りました。この「罰せられる」という言葉は、福音書では主イエスの十字架の場面で使われています。当然罰せられるべき私たち罪人に代わって、罰せられるはずのない御子が十字架で死なれました。私たちを罪から救い出すためでした。本来は、この主イエスの十字架こそ、不当なさばきでした。
 しかし、この主イエスの十字架によって、救いの道が開かれました。キリストのゆえに、「わたしもあなたを罰しない」と主は私たちに赦しを告げてくださるのです。恵みを恵みとして受け取るだけです。信仰とは、恵みを受け取る手、器のことです。私たちを救おうとする神の義に圧倒されて、私たちは感謝をもって手を差し出し、救いをいただくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



10月8日(日)
「罪の自覚による救いへの道」
(ローマ3:9-20)


 パウロはこれまで語ってきたことの結論のようにして、「ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にある」と言います。、「義人はいない、ひとりもいない」とあるように、神の前ではすべての人は罪人であるというのです。その決定的な態度は、神に対する畏れがないことです。神に造られた存在でありながら、神を畏れず、自分が神のようになって生きようとします。そこに人間の罪の根源があります。
 その上で、ユダヤ人が誇りとしていた律法の意義について、律法を行うことによっては義とされることはなく、「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」と語りました。これは、それまでの律法理解を逆転させるものでした。ユダヤ人たちは、律法によって自分たちの正しさが証明されると考えていたからです。ところがパウロは、律法によって隠れていた罪が明らかになり、罪人であるとの自覚をもたらすことになる、とその意義を説明しました。これは、律法が態度を変えてしまったのではなく、人間の罪が律法をそのような役割を果たすものとしたのです。
 そして、「罪の自覚が生じるのみ」とパウロは語りましたが、私たちのうちに罪の自覚が生じたならば、これは大きな恵みです。そのとき初めて、自分の中には救いの可能性がないことが分かり、キリストによる救いを求めるようになるからです。  ルカ18章にあるパリサイ人と取税人のたとえにあるように、私たちは神に赦しを願い求めるしかない者たちです。神はそのような者たちに赦しを与えてくださいます。そして、神による赦しを信じるからこそ、その神を畏れ敬う者とされるのです
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



「話し合いに表される主の御旨」
(使徒行伝15:1-22)

 教会がどのようにして主の御旨に従って物事を決めていくべきなのか、エルサレム会議と呼ばれる使徒行伝15章の大切な話し合いの中にそれが示されています。このとき、エルサレム教会のユダヤ人キリスト者と、異邦人伝道を進めるアンテオケ教会の人々との間で、異邦人がどのようにして救われるかについて大きな対立が生じました。主の御心を追い求めたからこそ、意見をぶつけ合ったのです。
 エルサレム教会の中心メンバーだったペテロが、アンテオケ教会の人々の主張を擁護するかのように、ユダヤ人も異邦人も、すべて主イエスの十字架によって救われるはずであることを語りました。すると、聴いていた人々は皆黙ってしまいました。話し合いを一時ストップし、神のみ声を聴こうとする沈黙でした。
 ユダヤ人たちにとって、今度は自分たちの意見と神の御心が対立する形となりました。このようなとき、私たちの信仰の根本が問われます。本当に「イエスは主」となっているか、と。自分の意見を押し通したいという思いに駆られるからです。
 議長役を務めていたヤコブは、勝手に結論を出さず、「私の意見では」と述べて、さらに皆の判断に委ねようとしました。どこまでも、話し合いの中に主の御心が示されると信じていたからです。ヤコブの意見を全会一致で受け入れた人々は、全教会に送る手紙に、「聖霊と私たちは……決めた」と記しました。自分たちの話し合いの中に、聖霊なる神が生きて働き、確かな導きを与えてくださったと告白したのです。今も、神を信じる者たちの話し合いの中に、主は御旨を表してくださいます。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)



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