「えこひいきされない神」
(ローマ2:6-16)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 神の民ユダヤ人たちは、自分たちは神から律法が与えられた特別な民だから、異邦人と同じようにさばかれることはないと思っていました。これに対してパウロは、ユダヤ人も異邦人も、それぞれ自分の行いによってさばかれるのであり、神はユダヤ人だからといってえこひいきなどされない方であると語りました。
 律法が与えられているユダヤ人は律法に照らしてさばかれるのですが、律法を持たない異邦人は、何によってさばきを受けるのでしょう。律法を持たない異邦人の心にも律法の要求が記されていて、それによってさばかれるとパウロは言います。その心には良心があって、訴える自分と弁護する自分の二人が、自らの行いをさばく働きをします。そのように、ユダヤ人も異邦人も、分け隔てなく、神の御心の光に照らされてさばきを受けることになります。
 私たちは、神のさばきの光に照らされることを避けようとします。しかし、神の前に自らの姿を正直に見つめるならば、「自分は大丈夫」と言える人などいなくなります。そこに、ただ神の憐れみにすがるしかない自分の姿が見えてきます。そのとき、「神には、かたより見ることがない」という聖句が喜びの知らせとなります。神はさばきのときだけでなく、救いにおいてもえこひいきすることなく、すべての人を救いへと招いてくださるからです。えこひいきすることのない神の恵みによって私たちに救いが与えられます。
 私たちに求められていることは、神が差し出しておられる救いの恵みを受け取ることです。えこひいきとも思える自分に対する恵みを、感謝をもって受け取るのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)