「神の義による救い」
(ローマ1:16-17)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 17節は、ルターが宗教改革を起こすキッカケとなった聖句です。この聖句の意味の新しい発見が、行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされるという信仰義認の理解をもたらしました。
 ルターは当初、この聖句に出てくる「神の義」という言葉の前に立ちすくんでいました。神の義というものを、罪人を木っ端微塵に滅ぼすところの徹底的な神の正しさとして理解していました。その神の義の中には、罪人の救いの可能性を見いだすことができなかったのです。このような理解に立つとき、罪人の救いのためには、もう一つの神の属性として神の愛を持ち出さなければ説明がつかなくなります。実際、主イエスの十字架についてそのように説明されることがあります。神の御子イエスが私たちの代わりに十字架にかかってくださったことにより、神は罪人を滅ぼすというご自分の義を全うされ、同時に、罪人を赦すという神の愛が全うされた、と。
 しかし聖書は、神の義は福音の中に啓示されたと述べています。御子イエスが十字架にかかってくださったという喜びの知らせの中に、神の義そのものが表されていると。神の義とは、罪人との関係を正して救おうとする神の働きを指します。御子キリストの十字架の福音の中に、私たちとの関係を正そうとしてくださった神の義が表されたのです。
 この神の義が示されたとき、私たちにできることは、恵みを恵みとして受け取るだけです。信仰とは、恵みを受け取る手、器のことです。私たちを救おうとする神の義に圧倒されて、私たちは感謝をもって手を差し出し、救いをいただくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)