「主の御顔を仰いで生きる」
(出エジプト34:29-35)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 モーセは主に呼ばれ、再びシナイ山に上り、40日40夜、主の語りかけを聞きました。話を終えて山から下りて来たとき、モーセの顔は光を放っていました。友と語るように、主と顔と顔とを合わせて親しく語り合ったからでした。主の栄光を反映させてその顔が輝いていたのです。
 しかし、モーセ自身は自分の顔が輝いていることに気づいていませんでした。人々はモーセの顔の輝きを見て恐れ、近づこうとしませんでした。近づきがたいものを感じたのでしょう。そこでモーセは、人々の前では顔におおいをかけました。
 旧約の人物では、神の友と呼ばれたのはアブラハムとモーセだけでしたが、主イエスは弟子たちのことを友と呼ばれました。キリストを信じる者たちは、主イエスの友とされたのです。そして、神の友とされた者たちは、モーセのように神と親しく語り、その姿が変えられていきます。
 そのことをパウロはこう書いています。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。主の栄光を見つめることにより、主に似た者へと変えられるというのです。「変えられる」という言葉は、昆虫が幼虫からさなぎへ、さなぎから成虫へと変態する姿を表す言葉です。私たちは時間をかけて、主に似た者へと変えられていきます。
 それがなされるのは、心にかかっているおおいを取り除き、主イエスを信じて、神の言葉に聴くときです。聖書をとおして表される栄光ある神の姿を見つめるとき、聖霊がそこに働いて、私たちも主に似た者へと変えられていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)