「赦しの神を信じて」
(詩篇130篇)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 詩人は「深い淵」から主に叫んでいます。自分の力では抜け出すことのできない、望みが失われてしまったような状況に置かれていました。それは自らの罪が原因であり、神との関係が断たれた状態を「深い淵」と表現しました。
 諦めてしまいそうな状況に置かれながら、詩人はそれでも、その絶望の淵から主に向かって救いを求めて叫びました。それが出来たのは、自分の中に救いの可能性があるからではありません。主がいかなるお方であるかを知っていたからです。
 自分の罪の大きさを見つめたならば、そこには望みはありません。「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか」と詩人も語るように、神がもし私たち人間の罪を一つ一つ数え上げられるならば、神の裁きに耐えうる人はひとりもいません。詩人はそのように、自分の罪を素直に認めています。
 そこでなお、「しかし」と頭を上げるのです。「しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」。神は、人間の罪を赦してくださるお方であると告白するのです。罪を赦すということは、決して簡単なことではありません。だからこそ、御子が人となってこの世に降り、十字架で死ななければなりませんでした。その御子イエスの十字架の死があるからこそ、私たちに罪の赦しが与えられました。
 この赦しの恵みが分かるとき、人の心に神への畏れが生まれます。神を怖がることではありません。神の前にひれ伏す礼拝の心です。この赦しの神を信じて、御前にひれ伏す真実な礼拝をささげたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)