「命をかけたとりなし」
(出エジプト32:21-35)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 イスラエルの民の偶像礼拝に対して、神の怒りは燃え上がり、「彼らを滅ぼしつくす」とモーセに言われました。聖書の神は、人間の罪に対してはお怒りになる方です。罪を大目に見て赦してくださる、というのではありません。私たちがこの神の怒りを何か不当であるかのように感じるのは、罪に対する私たちの感覚がそれだけ鈍っているからです。神は罪に対してお怒りになる方です。
 モーセは主の激しい怒りをなんとか食い止めようとします。イスラエルの民が神の民であること、アブラハムたち父祖に対してなされた約束を思い出し、滅ぼすことを思いとどまるようにと訴えます。そのモーセのとりなしにより、主は民を滅ぼし尽くすのを思いとどまられました。
 モーセは急いで山を降り、激しい怒りをもってアロンと民を責め、罪を犯した者たちを処罰した後、再び主のもとへ戻って行きました。モーセは民の罪を認めた上で、民の罪を赦してください、と懇願します。その上で、「しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」と訴えました。自分の永遠の命と引き換えに、彼らを赦してください、と命がけのとりなしをしたのです。
しかし、そのとりなしにも限界があり、人間が人間の身代わりになることはできません。できるのは神の御子キリストだけです。主は私たちのために、十字架で命をかけてとりなしをしてくださいました。私たちに対する神の怒りは、御子イエスに注がれました。その命がけのとりなしは完全で、私たちは主のとりなしによって赦されて今があるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)