「主は来られる」
(マラキ3:1-5)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 預言者マラキが活躍した時代は、バビロン捕囚が終わり、エルサレムが復興してから数十年後のことでした。その頃になると、人々の信仰に弛みが生じ、救い主の到来を待ち望む心は薄れていました。神を畏れずに生きる人々がかえって栄えているのを見て、信仰に空しさを覚えていたのです。
 そのような中、マラキは主の言葉を告げました。「主は来られる」と。道備えをする先駆けの使者に続いて、礼拝されるべきお方として主が確かに来られることを語りました。
 「主は来られる」というこの知らせは、神を畏れずに生きる人々にとっては不都合な知らせでした。この方は、正しい裁きをなさる方として来られるからです。そのとき、悪しき者たちは神の裁きに耐えることはできないからです。
 しかし、神を畏れる者たちにとってはそうではありません。悪しき者たちのように、「主は来られる」というこの知らせを、なにか恐ろしいものとして受け取ってはならないのです。神を信じる者たちにとっては、救い主が来られるからです。このお方は、私たちを裁く代わりに、自ら十字架にかかり、神の裁きを引き受けてくださいました。私たちはもはや裁かれることはありません。
 それゆえ、「主は来られる」という知らせは、私たちにとり喜びの知らせです。主イエスが誕生されたとき、羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、天使は「すべての民に与えられる大きな喜び」として、救い主誕生の知らせを告げました。アドベントにあたり、クリスマスに誕生された主がやがて再び来られることを信じ、待ち望みたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)