「自らを僕として」
(出エジプト21:1-6)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 神の民の基準としての十戒が語られた後、具体的な掟が語られます。その初めに、同じユダヤ人が奴隷となった場合、どのように扱うべきかが記されています。貧しさのゆえに、自らを奴隷として売るケースがあったようです。そのような奴隷について、7年目には、無償で自由の身として去らせるようにと命じられます。人格を尊重した驚くべき掟です。
 ただ一つ、その去り方について規程が設けられています。それはその家にやってきたときと同じ状態で去るようにということです。独身で来た場合は独身で、妻と一緒に来た場合は妻と一緒に去るように。問題は、独身でやってきた奴隷に、主人が妻を与えた場合です。その場合は、妻と子どもを置いて、その家を去らなければならないと規程されています。妻は主人のものだからです。
 けれども、ここにも例外規程が設けられていて、もし本人が去ることを望まず、主人を愛し、主人のもとで仕えることを望む場合、妻子と共にその家に留まることができる、というのです。そのために、家の戸口へ行き、耳を錐で刺し通して穴を開けるということを行いました。生涯、主人に仕えるしるしとなりました。
 果たして、そのような奴隷が本当にいたでしょうか。それよりも、奴隷に愛される主人などいたでしょうか。聖書は、キリストこそ、そのような主人であると語ります。主は私たちの僕となってくださり、十字架において私たちの身代わりとなり、私たちを罪の奴隷から解放してくださいました。このキリストの愛に応えて、私たちは自らを主の僕としてささげます。喜びをもって、「イエスは主」と告白して生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)